スェーデンでの看取り。
福祉先進国と称される北欧。しかし医療先進国ではない。そこに流れる思想として、回復に手間がかかるか、見込みが薄い患者は、そのまま神の元で休むのが良い。
写真)ギリギリまでリハビリに挑戦。薬だらけになった我が家のランドリールーム
ハニーが再再発してスェーデンに2人で渡航。浮腫で入院。退院して自宅介護の生活へ。日に4回ケアの人達が来て親身にトイレやシャワー、移動を手伝ってくれた。
筋肉や意識が衰えだし、ソファからずり落ちた時は私がクッションで下に横たわり助けを待った。それでもなんか下らない話で笑ってたのを覚えてる。
ベッドにいる時間が長くなり、医師が一方的に治療を中断。わたしはこれ以上ないくらい闘ったけど、スェーデンでは医師が全てを決める。
まだ食べれるのに食事ストップ。でも大好きなアイスクリームを少し流し込んでた。
3月2日、モルヒネ投与が始まり、そこから意識がほぼなくなった。看護師があと2日くらいしか持たないと思って投与したと後で謝られたが、彼は15日まで生き抜いた。
15日は朝から散髪、髭剃り、爪切り、マッサージして、夕方来る幼馴染を待ってた。
そしたら15時半頃かな、大きな息を2回吸って、そして止まった。右目から流れる一粒の涙。
あー、逝く時を自分で選んだんだな、って感じた。
スェーデンではすぐに遺体が安置所に移動され誰も身体を整えないらしく、急ぎ綺麗にして大好きなTシャツとジーンズを着せた。
それから義理の家族に電話。たくさん質問されたけどよく覚えてない。
三週間後に教会でお葬式。本人の希望だったレッドゼッペリンの曲をかけたよ。一週間後の焼き場には誰も来なくて、パイプ椅子かりて1時間半ほど焼くのを1人待ってた。ロック聴いてたかな。
その後は義理の家族と色々もめ、わたしは家や家具を引き払って、遺灰を背負って帰国した。三十キロある大きな遺灰。登山用のザックを買って担いできた。
成田で迎えに来てくれた友達の手を掴んだ瞬間、涙が噴き出て膝が崩れた。
今、思い起こしても胸が詰まる。
ここから分骨、遺産分割、わたしのグリーフという次の山がきた。まだ続いてる、